inside of thought.#4 [BAUHAUS考]

prasthana co., ltd. 代表/デザイナーの武井です。

季節がしっかり進んでいますね。
なんか前にも、、というか毎年書いているような気がしないでもないですが、8月が終わると「夏終わった!」 みたいな感覚になりますよね。
で、秋冬に向かう9月〜10月くらいの時期って、来たる新シーズンに胸を躍らせているのですがそんな気持ちとは裏腹に、まぁ言ってもまだまだ暑い、その季節の足踏みっぷりにヤキモキするものです。
AWシーズン待望論者は、ことファッションの領域内においては特にメンズウェア界隈にその人口が多い気がしていて、これは男性に顕著なオタク気質、もとい所謂男性脳に由来するものなのかな、服に執着が過ぎるというか、紛れもなく僕もそのうちの一人なのですが、そのような視座によると尚更、「夏、長いーーー。」な訳です。
暦の上での秋なんてとっくに到来しているはずなのに「ずっと暑いやん!」と軽装でいる事しばし、もう永遠にAWなんてシーズンは来ないのではないか、、などと考えてしまったりもするのが9月〜10月、もはや僕の毎年のお決まりなのですが、いやはや、季節って巡りますよね。
ちゃんと寒い。
「今年は暖冬」というフレーズって毎年聞きませんか?
2023年冬も例に漏れずそんなような認識でいたのですが、ちゃんと寒くなってきましたねここのところ。
漸くAWシーズンも本番、という事で皆様引き続き宜しくお願い致します。

さて、このJOURNALコンテンツにおいて所謂「雑記」的な位置付けで好き勝手に綴り散らかしている「inside of thought.」。
「思考の内側」という事で衣服の話に限らず、フォーカスする事柄の範囲を拡げて様々発信しておりますが、今回はその#4。
prasthanaの創作における姿勢や、デザインするという行為への考え方に多大すぎる影響を現在進行形で受けまくっている芸術運動/概念である「BAUHAUS」について書いてみようと思います。

 

 

「BAUHAUS」
バウハウス、ご存知の方も多いかと思います。
特にデザイン方面に少しでも関心がある方は殆どの場合、好意的に捉えているのではないでしょうか。
ドイツ語でBAUは建築、HAUSは家、「建築の家」と名付けられたBAUHAUS、そもそもは1919年、ドイツのワイマールに設立された芸術学校ですね。
世界初の総合的なデザイン教育を行なった機関で、その影響は広く深く、世界中に及んでいます。
その講師陣(BAUHAUSではマイスター=親方という呼称)も極めて豪華な顔ぶれで、現在に至るまで巨匠としてデザイン史にその名を残しているような人物も多数。
更にはそこで学んだ学生達もまた、その後巨匠と称されるようなキャリアを重ねていく訳です。
それはもう、際立って然るべきですし、そのような状況下で日々生み出されていたであろう良質な化学反応に思いを馳せると、酒飲みだったらこれを肴に大分飲んじゃうんだろうな、と思います。
ですが、実はBAUHAUSという学校自体は、1919年-1933年のほんの短い期間しか存在しませんでした。
そしてこの間にも、設立した地であるワイマールからデッサウ、そしてベルリンへ移転しています。
時代背景としては二度の戦争のちょうど狭間の激動のタイミングであり、最終的にはナチスドイツの弾圧が激化した事で、自主解散という格好で1933年にその活動の幕を下ろしました。
その期間僅か14年。
今から100年以上前の14年間の運動が、今なお多くの人々を惹きつけ続け、そして更には影響を与え続けているのです。
興味は尽きません。

超ざっくりですが、概要はこのような感じ。
こんな情報はちょっと検索すれば溢れ返る程出てきます。
で、ここから本題です、「BAUHAUS」とは何か。
いつも通り僕なりの考察ですのでご意見ある方、是非お寄せ下さい。

「BAUHAUSとはデザインではなく理念である」これに尽きると思っています。

今日、BAUHAUSの文脈に則ってデザインされた創作物って本当に数限りなく存在します。
日常で特段意識せずに触れている様々、例えばiPhoneとかですね。
その形態はもとより、誰もが見た事あるであろうiPhone内の計算機の構成なんかも、ディーター・ラムスがBRAUN社に提供したデザインにインスパイアされていたりします。
ディーター・ラムスは言わずもがな、BAUHAUSの影響を強く受けている人物です。


兎に角、モダンでミニマル、機能性を追求した無駄のないデザイン、○と△と◻︎、とか、、言語化するとそのような構成による創作物に対して、所謂「BAUHAUS的デザイン」といった印象を持ちます。
「オシャレインフルエンサーのROOM TOUR」みたいな企画があると、大抵の場合、この思考でデザインされたであろう調度品が複数登場します。
で、「オシャレですね〜。」もしくは「オシャレでしょ!」となる。
要するに、理屈ではなく直感的にオシャレと感じる、誕生から100年を経てもなお、ってこと。
オシャレと書きすぎてオシャレがゲシュタルト崩壊しそうですが、勿論この感覚は正しいと思います。
だけどその限りではない、理念の話。

縁あってつい先日、日本バウハウス協会の理事の方と会談の場を得まして、僕なりの所見を拙いながらお伝えする機会に恵まれました。
その方は僕の親世代くらいの年代なのかな、物腰の柔らかいナイスな紳士で、「ふむふむ、」と僕の話を聴いて下さっていたのですが、コミュニケーションの中でふと具体的な言葉でこのように話してくれました。

「BAUHAUSというのは、単一のデザインを指すのではなく、理念の事だと考えています。その理念とは、常に新しいデザインを生み出す、という事です。」

時代や形態を超えて、その時々で新しい機能やそれに付随する意匠を創造する事、それこそが「BAUHAUS」そして「BAUHAUS的思考」であると。

氏は全てのページに付箋がびっしりと貼られた一冊の本を指して、(勿論BAUHAUSに纏わる書籍で、その本にはこれまた全ページに手書きの注釈が所狭しと書き込まれていました。)

「ドイツに行った際にこの本の作者に見せたら、あなたは世界で最も私の本を汚した男だ、と言われました。いまだに毎日この部分の解釈はあーでもないこーでもないと勉強を続けているんです。」と笑っていました。

なんというか、目から鱗が落ちるような体験。
「常に向上を目指す姿勢これこそBAUHAUSだー!!」と大先輩の姿に感銘を受けましたし、僕自身が捉えていた自分なりの解釈、その答え合わせができたような感覚でした。
勿論解釈なんて人それぞれなので、必ずしもこれだけが正解という訳ではないです。
しかしながら少なくとも、BAUHAUSの一側面を確実に捉えた考察である事は確かです。

そんな感じで、日々自分なりに勉強を重ね、その理解を刷新し続けているBAUHAUSですが、僕の記憶しているファーストコンタクトは実は決してポジティブなものではありませんでした。
と言うのも、大前提として「自分の理解度の絶対的な低さ」が原因の全てなのですが、それ故にBAUHAUSの一側面「大量生産するための合理的なデザイン」という部分にのみ強くフォーカスし、更にはそれを曲解してしまっていたのです。
「生産における合理性に特化した味気の無いデザインなのだろう。」と。
過去に戻ってビンタして目を覚ましてやりたいくらいですが、これは全くの的外れ、勉強不足甚だしい若造が何言ってんだ、という事なんです。

そもそもBAUHAUSの成立って、その少し前の工芸革新運動である「アーツ・アンド・クラフツ運動」にそのルーツを遡る事ができます。
18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命の結果、安価ではあるが粗悪な大量生産品が世に溢れました。
「モダンデザインの父」と称される人物、ウィリアム・モリスはその状況を批判して、中世の手仕事に回帰し、生活と芸術を統一する事を主張、この動きは「アーツ・アンド・クラフツ運動」に発展していきます。
そして、この「アーツ・アンド・クラフツ運動」から大きな影響を受けたヘルマン・ムテジウスが主導した「ドイツ工作連盟」、そのメンバーの一人だったヴァルター・グロピウスがBAUHAUSの初代校長です。

この辺りの諸々も検索してもらえれば情報は多々出てくると思いますので、ご興味湧いた方は是非掘り下げてみて欲しいですが、ポイントはまさにここ! 「手仕事」「生活と芸術の統合」です。
産業革命以前の時代、職人の手仕事による作品って、当たり前ですけど非常に高価で、誰しもが手に取る事ができるものではありませんでした。
それは現代の感覚でも理解できますよね。
その意味で生活と芸術の間には大きな隔たりが存在していた訳ですが、機械化によって大量生産が可能となった事で、様々な製品が広く人々に行き渡り得る可能性が生まれた。
そしてそこに「芸術」「デザイン」という価値を付加する事で、「安価で粗悪な大量生産品」ではなく「機能性と意匠性を併せ持ったプロダクト」の創造を目指した、これこそがBAUHAUSの理念なんですね。
その見地に立つと、直接的/間接的問わず、その影響下にある人や創造物の範囲たるや果てしないということ、そして「デザインする」という行為の本質的な部分に気付かされる訳です。

まあまあな文字数を書いてきましたので今更なのですが、BAUHAUSって、基本的にアパレルデザインに直接的な影響を及ぼす何か、という事ではないです。
勿論、歴史に残るような作品群から強烈にインスピレーションを得るという事はありますが、それも非常にアブストラクトなもので、そのインプットを咀嚼&転化して自身のクリエイションに反映させる、というくらいです。
重要なのは散々書いてきました「理念」です。
「デザインに向かうスタンス」はもとより、「世界と自分の接点」だったり「機能と意匠の最適な距離感」だったり、抽象的で申し訳ないですが、そんなような様々を測る物差しとして、僕にとってとても大切なものです。

芸術を鑑賞する事も、音楽を聴く事も、洋服を着る事も、食事を摂る事も、、全て発信者と受信者の相互コミュニケーションによって成立します。
一方通行では成り立たないという性質上、対象はなんでも良いですが、その物や事象の価値を正しく判断する為には、受信する側も知識を持って理解を深める努力をしなければなりません。

昔、僕が音楽活動に邁進していた時期に、その分野の御大みたいな方が雑誌のインタビューで言っていた

「リスナーがもっと音楽を勉強しなければならないよね。」

という言葉が好きです。
少々エゴイスティックに聞こえるかもしれませんが、発信者はもとより、受信者も含めた各々が知見を深める事こそが、文化を守っていく為の重要なファクターであると思います。
日々、あーでもないこーでもないと勉強を続け、物事を進めていきたいものです。

少し長くなってしまいました。
お読み頂きありがとうございました。
今、自分にとって、そしてprasthanaというブランドにとって、とても意義深い取り組みが音を立てて動き出しているような感覚があります。
これまでの活動の中で作り上げてきた大小様々な点と点が、線で結ばれる瞬間を近い将来お披露目できると思います。
是非注目して下さい。

宜しくお願い致します。